お写ん歩写真は瞑想? 禅病になる?
昨日は滋賀県に行って行って来ました。
一泊する予定だったですが、わざわざ一泊するほどでもないと思い、なんだかんだで日帰りで帰った。
昨日は涼しかったけども、湿気が高くてしばらく歩くと汗が吹き出てきた。
JR膳所駅で下車してそこからテクテク。
台風で2日ほど自宅から出れなかったので、久しぶりに外出する感じがした、
ずっと歩き回って撮ってたのだけども、街撮りというかスナップというか、そういう類の写真を撮るとなると、撮りたくなるものに出会うべくずっと歩き回ることになると思うのだけども。
他人のことは知らんが、自分はそうです。
ひたすら歩き回って写真を撮ってると、あたかも瞑想をしてるような浮遊感というか、時間が過ぎていく感覚がなくなるというか、一種のトランス状態になるのですね。
やってることってとても単純なことで、歩いて、撮る、歩いて、撮る、の繰り返しです。
その単調な繰り返しがより向こう側に連れて行ってくれるのですね。
自分は、お写ん歩写真ってある意味、瞑想だと思う。
ハイになるんですね。
そして、そのハイを求めてまたカメラ首からぶら下げて写真を取りに行くってことをずっと何年も続けてたわけです。
ずっと瞑想に夢中になってたっていうのか。
もう、撮った写真がどうなのか、っていうのは二の次なのですね。
写真を始めた頃ってこういう感覚で写真は撮ってなかった。
なにかいい写真を撮ろうって思って、歩き回ってたけども。
ある時期からそんなこと考えなくなってしまって、目的がいい写真を撮ろうってことよりも、歩いて写真を撮るという行為がの目的になってきたわけです。
元々自分は何気ない、どこにでもある風景とかに惹かれる体質なこともあって、あるき回って、何気ない風景なり光景なりに出会って、それに琴線に触れればとりあえず撮れば良いわけです。
誰でも簡単に撮れる、特に撮るべきでもないものを撮る体質なので、その特に難しくないシンプルな行為が、よりあちら側に行きやすくなるのですな。
そうやって「ゴミ」のような写真ばかりを量産してるわけです。
ゴミと書きましたが、自分がなにかを感じてシャッターを切ってしまうものってそれはそれで尊いわけですが。
なぜなら自分が良しとして撮るものって、ある意味その人自身なわけで、自分をゴミと称してるわけですけども。
ちゃんと書くと「ゴミ」ではなく「ゴミのような」ですけども。
それぞれ写った光景なり風景なりに他人の所有物とかも写り込んだりするし、誰かがデザインした広告とかフォントが写り込んだりするわけですし、時には人も写り込んだりするので、「ゴミ」とか「ゴミのような」という例えは適切でないかもしれませんが。
そんなことで、自分の休日は瞑想に夢中になってしまってるわけです。
幸い、普通に平日は働いてるし、現実に戻る時間が長いので禅病になることはないですが。
カラーで撮ってカラーで出力してる分には常に現実に近い状態なのですが、こうやって毎日モノクロで出力してると、目つきがおかしくなってきますね。
色がないと生を感じにくくなるというのか。
カラーよりモノクロで撮ってる方が病気になりそうです。
やっぱり自分はカラーが好きかな。
さて、これから万博記念公園でも行ってコマそうかと思ってます。
それでは。









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